こんにちは、リエコです。
著名人の訃報が入ってきました。
「失踪日記」で知られる漫画家の吾妻ひでおさんが13日未明、東京都内の病院で死去しました。
享年、69歳。
関係者の話によると、葬儀・告別式は近親者ですでに済ませたもよう。
吾妻さんは、かねてから食道がんで闘病していました。
そこで今回は「吾妻ひでおさんが死去、『失踪日記』とは?生涯と代表作や妻と子供は?」と題しまして、漫画家・吾妻ひでおさんの『失踪日記』について、波乱に満ちた生涯や代表作、そして妻や子供について追ってみました。
それではさっそく本題に入っていきましょう。
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吾妻ひでおさん著書『失踪日記』を含む代表作とは
吾妻ひでお(本名:吾妻日出夫)、かねてから食道がん治療中でしたが、2019年10月13日未明、都内の病院で永眠いたしました。享年69歳。ここに謹んでご報告申し上げます。合わせて永年の読者の皆様のご支援と励ましのお言葉に改めて御礼申し上げます。
— 吾妻ひでお (@azuma_hideo) October 21, 2019
葬儀、告別式は近親者のみで執り行いました。大変恐縮ではございますが、故人宅への取材、お問い合わせ、供花等はお控えいただくよう、お願い申し上げます。後日、お世話になった方々、ファンの方々にも参加していただける形でお別れ会を開く予定です。こちらは決定次第、ご案内申し上げます。
— 吾妻ひでお (@azuma_hideo) October 21, 2019
新聞社から連絡があった。吾妻ひでおが、13日に亡くなった。闘病しているのは知っていた。それを励ますための出版企画がいくつかあって、先日もひとつ了承したところだった。俺の1歳上だったから、まだ69歳。吾妻、長いつきあいだったな。やすらかに。
— いしかわじゅん (@ishikawajun) October 21, 2019
吾妻ひでお、今だと「失踪日記」が代表作に挙げられてしまうのは仕方ないけど、日本の漫画界において、SF、ギャグ、美少女を扱うものの多くは吾妻ひでおの影響下にあると言って過言ではない。
— OE Waku 𛄊𛀬 (@wakufactory) October 21, 2019
1950年2月6日生まれの北海道十勝郡浦幌町宝町出身の吾妻さん。
69年、『月刊まんが王』の『リングサイド・クレイジー』でデビュー。
以後、SF・ナンセンス色の強い作風で徐々に人気を博しました。
『週刊少年チャンピオン』で当時流行していたハレンチコメディ路線の『ふたりと5人』を連載し、大ヒットを記録します。
その後、マイナー誌等でSF・ロリコン・ナンセンスの要素をふんだんに湛えたマニアックな作品を続々と発表し、「吾妻ブーム」が沸き起こり、78年に発表した『不条理日記』は79年に日本SF大会で星雲賞(コミック部門)を受賞、「不条理漫画」というジャンルの開拓者とみなされ、歴史に名を刻む漫画家となったのです。
同年、日本初のロリコン同人誌『シベール』に同人作家として作品を発表。
男性向け雑誌や自販機本にもロリコンマンガを発表するなど、当時、メジャー誌出身の漫画家が同人誌やエロ本に描くことはきわめて異例でありました。
いわゆる、エロ本分野の開拓者のようですね。
77年から79年にかけて、『月刊プリンセス』に連載された「オリンポスのポロン」は、82年に「おちゃ女神物語 コロコロポロン」としてアニメ化され、テレビアニメ放映と並行してコミカライズ版が『100てんコミック』に連載されました。
また、80年から85年にかけて、『ポップコーン』及び『ジャストコミック』に連載された「ななこSOS」も1983年にフジテレビ系列でアニメ化され、これが商業的には最も成功した作品となったでしょう。
さまざまな偉業を成し遂げた吾妻さんですが、85年ごろからは低迷期に入り、自殺未遂事件や失踪事件を起こし、アルコール依存症治療のため精神病院に入院を繰り返します。
そして、05年にそれらの体験を描いた『失踪日記』を出版し、再び注目を浴びました。
同書は、自身の経験を題材にしたノンフィクション作品。
1度目の失踪を描いた「夜を歩く」、2度目の失踪を描いた「街を歩く」、アルコール依存と治療の時期を描いた「アル中病棟」の3つのエピソードを収録し、「シャレにならない」部分はあえて省き、エンターテインメント作品として仕上げています。
吾妻ひでおさんの生涯、妻と子供は?
「アル中病棟」の中で吾妻ひでおが妻に「死にたい、殺してくれ」と言い妻は「殺人犯にはなりたくない」と話しているシーンがあり、そういえばうちの父も僕と酒を飲んで「楽に死にたい。自殺が出来る道具を買って来てくれ」と話していたのを思い出した。思いつめると家族に言うんだよね。
— 神無月サスケ (@ktakaki00) October 20, 2013
吾妻さんは、1980年代半ばから約8年に渡り活動の沈黙期に入ります。
その間に2度長い失踪をしました。
病が落ちついた、90年代後半に再び漫画作品を発表し始めたのですが、ある出版社に持込みをしたとき、若い編集者に「無名のマンガ家」と勘違いされ、失礼な対応を取られたこともあったと言います。
そして、17年3月に食道癌が判明し、入院闘病中であることを、自らのツイッターで発表。
同年5月、手術を終え退院し、自宅療養中であると公表し、胃を切除と食道を吊り上げる手術だったことを公にしていました。
そんな波乱に満ちた吾妻さんを見届けたのが、1979年に結婚した妻です。
なお、80年には長女、83年には長男が誕生し、2児の父親となりました。
妻は「ふたりと5人」連載初期までと、失踪後の執筆再開後に吾妻さんのアシスタントを務めたこともありました。
また、『うつうつひでお日記』等では「アシスタントA」として登場、「アシスタントB」は長女、「アシスタントC」は長男と、家族一丸となって作品を制作してきました。
そして、妻は漫画家夫人による4コマ漫画を掲載する「奥様漫画」という企画に4コマ漫画2本を寄稿、商業誌デビューしています。
さらに、吾妻作品に先駆けて長男を漫画デビューさせた剛腕マネージャーとしても知られています。
まとめ
今回は「吾妻ひでおさんが死去、『失踪日記』とは?生涯と代表作や妻と子供は?」と題しまして、漫画家・吾妻ひでおさんの『失踪日記』について、波乱に満ちた生涯や代表作、そして妻や子供について追ってみましたが、いかがでしたでしょうか。
吾妻さんのご冥福をお祈りいたし、ここまでにさせていただきます。
最後までご覧頂きありがとうございました。
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